ろくでもない、素敵な酒あります



バーボンその歴史

投稿者 : 杉本昭博 on

イギリスの植民地だった頃というのはアフリカから連れてきた奴隷と、貧困にあえぐイギリスの庶民、それを管理する極少数のエリート達。
もちろんエリートたちはフランスから仕入れたブランデーを飲んでいたそうですが、庶民は穀物やフルーツなどを使って酒を作っていたそうで、人間の酒に対する執念というのはすごいものがあります。
ろくな機材もない状態で、今なら不味くて飲めたものでもないようなものでも飲んでいたのですからタクマシイですね。
それが、何時しかバーボンになるのですから歴史って面白い

7月4日は独立記念日

独立記念日
アメリカ大陸にイギリス人が入りだし、やがて植民地化していく。
その後、1775年4月19日から1783年9月3日まで行われたアメリカ独立戦争(イギリス本国(グレートブリテン王国)と北アメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争)でアメリカ側が勝利。
1783年のパリ条約で戦争が終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めた。
1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して毎年7月4日に定められている
当時の状況は西部劇のような状態で、カウボーイが馬に乗って牛を放牧させながらフロンティアを目指していた。
その中で悪者にされているのがインディアン達先住民だが、彼らにすれば白人たちが悪人と思うのだが、話が脱線するので割愛させていただきます。

色んな穀物で蒸留酒を作っていた

ジャガイモ

当時はフルーツを発酵させたものや、ビールのような粗末な酒しかなかった。
そこにアイルランドやスコットランドを含む英国のの貧しい人たちや宗教的に弾圧されている人達がが新天地アメリカに渡ってきたことで、ちょっとでも祖国の酒を味わいたいと言う思いから、ライ麦でウイスキーを作り徐々に広まっていく。
だが当時の酒造りは地産地消の小さな専業の蒸溜所も出来るが、ウイスキーなどの熟成を伴うものは出来ておらず何方かと言うと焼酎に近い飲み物だった。

独立戦争後

密造酒

そうこうしているうちにイギリスの植民地から独立しアメリカ合衆国になったことで、政府が考えたことは酒に対する徴税だった。
今まで無料だったものに税金がかかるということに猛烈に反対し、反骨精神旺盛なのもあり徴税から逃れるため西へ西へと向かい遂にアパラチア山麓の反対側のケンタッキーやテネシーに向かいバーボンの歴史が始まる。
1789年(合衆国発足の年)、エライジャ・クレイグ牧師によって作られ始めたのが最初といわれている。

なぜバーボンという名前に?

フランスはアメリカ独立戦争を後押ししてもらった事に、第3代大統領のトーマス・ジェファーソンが感謝し名付けたと言う説が有力だが定かではない・・・。
当時ケンタッキー州に多くのフランス人が移り住んでいたことから、フランスのブルボン朝(文化史の分野ではルイ王朝と呼ばれることもある)の英語読みのバーボンと言う名前を付けてケンタッキー州バーボン郡となり、その土地で作られるお酒がバーボンと呼ばれるようになった。
この土地は痩せていて他の穀物が育ちにくかったため、トウモロコシしか出来なかったのでしょう、やがて一大生産地になりココで取れるトウモロコシを使った蒸留酒が後のバーボンやコーンウイスキーのに進化していきます。
現在は人口約2万人(2000年調べ)と言うこぢんまりした町というか村で、蒸溜所が幾つも軒を重ねる一大生産地でしたが、今ではマイクロディストラリーと呼ばれる零細蒸溜所がほそぼそとバーボンを作っているだけになりました。

バーボンの基準

主原料は51%以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦など。これらを麦芽で糖化、さらに酵母を加えてアルコール発酵させる。その後、連続式蒸留器で、アルコール度数を80以下となるようにを行って、バーボンの原酒(ニューポット)となる蒸留酒を製造する。このニューポットをアルコール度数62.5%(125プルーフ)以下に加水して調整し、内側を焼き焦がした新樽に詰め、熟成を行う。この熟成によって、焦げた樽の成分がニューポットへ移り、無色透明だったニューポットは独特の琥珀色に着色される。またニューポットの一部は大気中に揮発し、さらにこの間にゆっくりと進行する化学変化によって、バーボンは作られる。熟成期間の下限は規定されていないが、4年未満の場合はラベルに熟成期間を表示することが義務付けられている。

テネシーウイスキーの基準もある

コチラは上記のバーボンの基準に追加でテネシー州で採れたサトウカエデを燃やして作った炭で濾過しないといけないというのと、製造はテネシー州で作ったものだけテネシーウイスキーを名乗ることが出来る。

バーボンにしてもそうだが、アメリカで作っていないとバーボンを名乗れない。

日本でライセンス生産するとバーボンでなくなる

ジムビームや、バッファロートレース、ヘブンヒルなど大手の蒸溜所のライセンス生産があったとしたら、同じ手法で原材料が同じでも日本で作るとバーボンと名乗れなくなるのでコーンウイスキーになるのだろう。

日本でライセンス生産したものを本国に逆輸入しても作っているのが日本なのでやっぱりコーンウイスキーになる。

面白いので何処か大手の蒸溜所がやってもらえないだろうかと考えたりする。

禁酒法時代に突入

密造酒

カウボーイたちが牛を追いかけながら、西へと広がりを見せながらアメリカは発展していくが、そんな中でもせっせと密造酒を作っていたのだが、世界情勢も変わり第一次世界大戦が始まろうとしていた頃

1920年から1933年までアメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行された最も馬鹿らしい法律として知られている。

この法律のおかげで、多くの蒸溜所が閉鎖に追い込まれたが、中には密造酒を作ってしのいだり、薬用のアルコールを製造することでなんとか生き延びた所が大手になり今でも残っている。

 禁酒法については当ブログのコチラを御覧ください

禁酒法は無くなったが

世にも間抜けな法律が無事無くなり、お酒が飲める時代になったが歴史は残酷なもので今度は世界中の株価が下がるブラックマンデー、世界恐慌が訪れたのでした。

せっかく禁酒法も無くなったので大ぴらに酒が飲めるし販売できるぞ−!って、意気込んだけどココでもバーボンの復活が遠のき、もうしばらくお待ち下さいの状態が続くのです。

そんなこんなもあり、恐慌も収まり復興が進むと同じようにバーボンも復活していき、有名メーカーのお酒が飲めるような時代に入ります。

2000年代に入って

バドワイザーやクワーズと言った大手のビールメーカーの販売量の頭打ちを見せ始めスピリッツも同じように頭打ちを見せ始めていたが、時はクラフトブームで、クラフトビアー、クラフトジン、クラフトラムと言ったクラフト系が意識高い系の御仁に受け、メーカーの有り触れた酒でなく自分好みを探すという事が流行りだした。

そのブームは日本でも始まり、今ではクラフト以外酒じゃないとまで言う人もいるとかいないとか・・・

確かにクラフトビール流行ってます。

その波はバーボンにも及び、2000年頃は20にも満たないクラフト系のバーボン蒸溜所が今では週1で新しい蒸溜所が出来ているとも言われている。

2003年から

この増え方を説明するには、2003年の放置改正があった事に由来する。

それまでは酒蔵を始めるには「クラスA」と呼ばれる年間50,800ドルのライセンスフィーが掛かった。

それが、「クラスA1」という新しい規格が出来、1450ドルのライセンスフィーで最大3,500ガロン(約13,000L)まで製造できるとなったことで一気にマイクロディストラリーと呼ばれる小さな蒸溜所ができてきた。

クラフト系の蒸溜所も

人気が出てくると、大手の魔の手が寄ってくる。

そう、買収のお誘いがくるのです。

しかし買収されたからと言って変わるのではなく名前などは残しておくのだそう。

でないと、せっかく意識高い系の御仁が買ってくれるのに大手の名前が出てくると一気に手を引き出すのを知っているので、あえて出さない戦略を取っているらしい。

気になる蒸溜所があれば、よーく調べたらよく知っている名前が出てくるかもしれませんね。

最後に

バーボンは比較的浅い蒸留酒なので歴史はこんな感じですが、スコッチやラム酒など奥深い酒もありますのでまたかいていきたいと思います。

最後までお読み頂きありがとうございます。



 私がこの記事を書きました


杉本 昭博 プロフィールはこちら

四柱推命鑑定も出来る酒屋の店主
若い頃にBARレモンハートと言う漫画を読んでショットバーに憧れお酒の勉強を始める。2020年頃からお酒が飲めない体質になった事をきっかけに酒屋を始める。

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